コレクション相場についての雑記
コレクション相場についての雑記
コレクション相場についての雑記
まず先に私のスタンスを表明しておきますが、転売は害悪でしかないと思っています。

以下は最近あれこれ理由を考えていた事に関するメモです。
その辺に落ちてるあり合わせの材料で作ったので精度は低いです。

添付画像1は、ポケカを全然知らない友達に説明するため去年の8月に作成した資料の一部です。
最近見返してみてびっくり!あれから1年弱、その価格はさらに高騰、がんばリーリエで5~6倍、エクストラに至っては10倍以上で100万近くの値が付くことも・・・
(2つ目の画像はがんばリーリエ(鑑定無し)の過去180日の価格推移をヤフオクで調べたものです。まだ上がるのか?)

去年8月の時点で異常な値段だな~、と思っていたのですが、
なんのなんの、初動も初動、まだ山に登ってもいなかったのです。
1年前に誰がこんな世界を想像できただろうか?

ちなみに画像の資料ではショップの戦略として高値で買い取っているというような事を書いていますが、当時そこまで詳細に見ていなかったので、相場の方が先に動いてショップが後追いしたのかもしれません。個人の主観なのであてにしないでください。

なぜここまで相場が高騰したのか、まず想定される要素を羅列してみます。
・ポケカ人口の急増
・転売ヤーの増加/フリマアプリの隆盛
・巣ごもり消費/自宅時間の増加
・投機マネーの増加
・海外コレクター市場の盛り上がり/安い日本

ポケカ人口が急増したのは、2018.7.6迅雷スパークあたりからで、
店頭で売り切れが続出するようになっていましたが、
まだこの時点では目立った転売は無かったと思います。

一方で転売ヤーの増加について、
2013年7月2日にサービスが始まったメルカリの
MAU(Monthly Active Users月に一度でもアプリを起動したユーザーの数)
の伸びが3つ目の写真です。(メルカリ決算資料より)

サービス開始後コンスタントに伸び続け、2018.1Qは702万人、
最近2000万人を超えたそうなので、この間に約3倍、
国民5人に1人が使っている状況になっています。(ヒエ~)

2020.2Q以降は新型コロナによる外出制限でユーザーの接続時間の増加が予想されます。
この時期マスク転売が取りざたされ、プレステ等高額転売の実態がTVで取り上げられ、それが手軽に出来る小遣い稼ぎの宣伝になり、新たな転売ヤーを増やしたという要素は否めないでしょう。

品薄で、定価で買えれば転売利益が見込める。
そんな商品があれば格好の的です。
たまたまそのタイミングでプレイヤーが増加しており品薄だったポケカが嵌まった。そういう事ではないか。

高値で買う人が居れば、それを見込んでさらに高値で買う。
市場参加者が増える事で自己実現的に価格は高騰します。
メルカリのグラフを見るとまだ伸び率は落ちておらずあと少しはこの相場が続くと思われます。
靴磨きの少年が現れるのはいつでしょうね。

コロナ前から、ウィスキーが高騰したり、中国切手が高騰したり、
世界的低金利状況から市場に金があふれ、投機先を探して徘徊しているように感じていました。
平成の30年間停滞し続けた日本をよそに世界の物価・賃金水準は上昇し、
今や日本は安い国と呼ばれる始末、そんな状況も多少は影響してるかなあ。
初代リザードン4000万とか海外のコレクターは金の使い方が違うぜ。
ちょうどポケモンネイティブ世代が30代後半にさしかかっているのも上昇要因なんでしょうね。

市場参加者が増える事で高騰する相場が有る一方、
参加者が増える事で暴落する相場もある。

「見返り美人」「月に雁」をオマージュしたポケモンカードが発売されるのを見て、
現在の「見返り美人」「月に雁」の相場を調べて愕然!
40年くらい前、小学生の頃2~3万してとても手の出ない憧れの切手だった
「見返り美人」「月に雁」が2~3000円以下だって!!

こちらはコレクターが減少し、かつてのコレクターはそろそろ終活という時期にさしかかり、
にわかに手にした個人売買ツールを使って、こぞって売りに出した結果、相場が崩壊したというところでしょう。
最近見たら無くなっていたが6年前はまだ切手の店があって、見知った値段で売っていたはずなんだが・・・

かつてコレクター市場の王様であった切手は、見る影も無し、
20年後のポケカもこんな感じでしょうかね。

物の値段というのはつくづく面白い。

また、10年前の日記のコピペから

〔空気には逆らえない話し。〕

自分の感覚は、ほ乳類というより虫に近いので、
空気を読むという事が非常に苦手です。
(群れていると安心という、ほ乳類的な感情は希薄です。)

ですから、基本的に人の輪から外れた所が私のポジションです。

戦前なら非国民扱いでしょうし、
今ならいじめの対象になっている事は間違いないと思います。

1960年代末に生まれ、既成の村社会の枠組みが崩れる中、
高度成長期で社会が確定してなかった時期に育ったという事は、
自分にとって非常な僥倖であったと思います。


どうも日本の社会では、一度空気が形成されてしまうと、
反対する意見を述べる事がタブーとなってしまうらしい。

いじめだって根は同じで、いじめは良くないと思っていても、
一度空気が形成されてしまうと、それを表明する事には非常な危険が伴う。

何なのこれは?
皆と同じだと安心する国民性?
それとも組織への帰属表明?

色んな意見があって良いと思う。
空気で右に走ったり、左に走ったりする国民性は変えないと、非常に危険なものを感じます。

空気が形成されると反対意見が言えなくなる事を指して
「異常な自粛社会」と呼びました。

今のインフルも、マスク着用率から考察するに、
深刻に考えている人は2割程度だと思います。

でも、命にかかわる事だから、対策が必要か? YES or NO
と問われると、YESしか言えない空気です。


4、5年前O-157騒ぎの時、近くの大学で学祭がありました。
その中のバザーの出し物に金魚すくいがあったのですが、
2日目、出し物が飼育グッズに変わっていました。

理由を聞くと「生ものはだめ」と言われたらしい。

「アホか」と思います。
お前らは金魚を喰うのか?

異常な自粛ムードで、0.001%でも可能性のあるものは
許可出来なかったのかもしれないが、常識的に極めて可能性が低いと
意見を言う奴は居なかったのか?

そんな事すら言えないムードに恐怖を覚えます。

世の中の危険は決して0にはならない、
軽重を判断して、許容される危険性の中で暮らして行かざるを得ない。

公的にコメントする場合は、安全サイドの意見を言っていた方が
無難だし、非難もされない。

そういう判断があるから、ますます自粛社会が加速する。
もはや暗黙の空気の前に沈黙するしか無い世界。

------(ひみつ日記)------

だいたい、マスコミの風潮からしてそう。
愚にもつかない事を取り上げて大騒ぎ、祭りが終われば知らん顔。

マスコミの行動原理は「おもしろおかしく」という事に尽きる。
本当に深刻な事は取り上げて騒がない。

日本では年間3万人が自殺していると言うのに、大した騒ぎにならない、
(私の職場でも2年に1回位は自殺したという話しを聞きます。)

深刻な現実を突きつけられても、おもしろおかしくないから。

赤福の賞味期限が切れて、誰か死んだのか?

羊水腐る発言のバッシングがありましたが、
公人でも医者でもない1歌手が言った発言を、あれだけ叩く意味が分からない。

私は倖田なんとかは、夜11時以前はTVに出すなと思っていますが、
あの発言自体は高齢出産の危険性を、無知な素人理解で発言しただけで
特に問題とは思わない。

私人の1意見であり、違うなら違うと言えばいいだけの事。

それを社会挙げてのバッシング、
これでは私人といえど、うかつな発言は出来ない。

恐ろしい言論統制だ。


----------再録ここまで------------

以下ジムチャレも無いので、暇すぎて、暇つぶしの記事です。

さて、わざわざ10年前の日記を引っ張り出して来たのは、
昨今の新型コロナに関する騒ぎについて述べるためですが、
まず、そんなに大騒ぎするほどの物なのか?という所が理解できない。

病気は恐ろしいし、かからない方が良いのは当たり前ですが、
社会活動を全て停止させる程の脅威なのでしょうか?

リスクの程度を測るためにて基礎的な数字を調べてみます。

      日付 感染者数 死亡者数 致死率
国内     3/7  420     6    1.42%
クルーズ船  3/7  696     6    0.86%

国外     3/7 97,147   3,368    3.47%
中国     3/8 80,695   3,097    3.84%
イタリア   3/7  5,883    233    3.96%
韓国     3/8  7,134    50    0.70%

致死率4%とか言う人が居ますが、
分母である感染者についてどこまで調べられるのかが国によってバラバラであり、この致死率にはあまり意味がないでしょうね。
(死んだ人だけ調べれば致死率100%になります。)

軽症者まで調べれば致死率は下がりますし、
重傷者を優先しなければいけない所は致死率が上がる。
この数字自体は医療崩壊の程度を表す意味しか無いと思います。

この中では、比較的広く調べられているクルーズ船と韓国の数字が、まあ信頼性が高いのではないでしょうか。

最終的に1%を切ると見るのが妥当だと思います。

これと毎年発生するインフルエンザの数字を並べてみます


-----------厚生労働省HPから--------------
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html

Q10.通常の季節性インフルエンザでは、感染者数と死亡者数はどのくらいですか。

例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1000万人いると言われています。
国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214(2001年)~1818(2005年)人です。
また、直接的及び間接的にインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する超過死亡概念というものがあり、この推計によりインフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されています。
-----------------------------------------

         感染者数    死亡者数
新型コロナ      420      6
インフルエンザ 10,000,000   214~1818  

感染者数は現状あてにならないので、死亡者数を見ます。
インフルエンザは1年通しの数字ですが、まあ10倍しても意味合いは変わらんでしょう。
要はインフルエンザと比べると影響は小さいという事です。

インフルエンザ以上の対策を取る意味が分からない。
インフルエンザと同じくクラスで10%発症したら学級閉鎖という程度の対応で良いんじゃないのか。
(これを言うと真剣にやってる人に凄く怒られそうですが)

最終的にはコロナによる死者よりコロナ対策による経済苦による死者の方が多くなりそうですね。
命に関わるから対策を、と叫ぶのは良いのですが、度の過ぎる対策で
それにより死を選ぶ人の命も考えてほしいです。

良く言われますが、正しく恐れる事は難しいのでしょうか。


ちなみに風邪という病気が有りまして、
その原因の15%位はコロナウィルスらしいです。

毎年毎年新型が発生し、風邪の症状を起こすウィルスの中で、
特に病原性の高い物に対してはSARSとかMERSとか命名される訳ですが、

国際ウイルス分類委員会の分類ではSARS近縁としてSARS-CoV-2と命名
WHOでは暫定的な名称として2019-nCoV(2019 Novel Coronavirus)2019年の新しいコロナ)
という扱いのようです。

毎年出てくる新型コロナと一線を画する物として命名されるかどうかは、これからの評価次第でしょうね。

--------------------------------------
ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%82%AA
風邪

「身の回りに存在するリスクを並べてみる」
(2011年4月7日の日記)

避けられるリスクは避けるというのは賢明ですが、
度が過ぎる対応には疑問を感ぜざるを得ません。
以前から人はリスクの中で暮らさざるを得ないという事を主張している訳ですが、
http://kameiru.diarynote.jp/201007282200034471/
ちょっと身の回りに存在するリスクのパーセンテージを考えてみたいと思います。

日本の人口は2010年10月1日現在1億2805万6000人という事ですが、
今回非常に大雑把な計算になりますので1億として考えてみます。
人間の寿命もこれまた大雑把に100年として、
1生のうちでリスクに遭遇する率を出してみたいと思います。

(基準年2010年)

交通事故による死者 4863
4863÷100000000×100=0.004863=0.49%

新型インフルエンザによる死者 300?(どこまで含めるか不明)
300÷1000000=0.0003=0.03%

自殺者の数 31560
31560÷1000000=3.156%

肺ガンによる死者 7万人程度?
70000÷1000000=7%

交通事故による死亡が0.5%という事で、
学年で200人いると1人はその生涯で事故で死亡するというパーセンテージですね。
実感的にもそんなものかと思います。

自殺者はもっと多くて、1クラス30人いれば1人は自殺するという数字ですね。
すごい数字ですね。

肺ガンの数字は老衰とかその他もろもろの因子が絡むので何とも評価できませんけどね。
(疫学上では交絡因子といいます。統計はウソをつきますので、
 その数字がどうやって出た数字であるか検証が必要です。)

狂牛病なんてのは今の所測定不能ですね。
因果関係自体証明されてないし。

まあ、非常に大雑把な計算なんで あんまり当てになりませんけどね。
あれを避けるよりも もっと他に避けるべき事があるんじゃないか?という話です。

とはいえ私も避けられるリスクは避けますけどね。

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リスクと政策のバランスを考えるのが政治の仕事。
「病気を蔓延させない」という、それ自体は正しいお題目で思考停止するのはいかがなものか・・・

安全サイド、安全サイドで物を言ってれば批判はされないですからねえ、
世の中正しい事を言いたいだけの人が多すぎるよ、
単純な正義に飛びついて、正義面して他者を叩く、
10年経ってSNSが普及して、集団で以て叩く、叩く、冷静な議論が出来ない社会は、誰かに操られてしまいますよ。
本日は久しぶりに痛い話をします ※R13指定


最近すっかり言うのを忘れてましたけど、ここリスペクト禁止なんです。
理由はいくつか有るのですが、

①リスペクトしてますみたいなコメントが並んでると反対意見が言いにくくなる。

イイネ乞食ではありませんので、他人の承認なんて要りません。

このブログ上ではともかく自由な意見交換をしたいと思っていますので、
反対意見であっても気軽に言ってもらうと良いと思っています。
なんか同じ嗜好の人ばっかり集まってくると違う人は発言しにくいじゃないですか。

これが理由の1

私は自分と意見が違うからといって、その人を嫌いになったりしないです。
その昔、さるお方とDN上でポケカ観の違いから言い合いみたいになって
回りの方になだめられるという事をやらかしましたが、
本人同士では意見交換をしていただけのつもりだったんですけどねえ。
(はっきりと聞いてないから そう思っているのは自分だけかも
 しれませんが、そうだったらごめん。)

しかし、ポケカ観の違いでケンカする40過ぎの大人は相当痛いなあ・・・

まあ、それはともかく何でも自由にコメントしてもらっていいですよって事です。
できれば距離感に応じた言葉使いにはしてほしいですけど、たいがい大目に見ます。

ただし、発言は中身を読んでからしてもらいたい。
単語だけに敏感に反応して攻撃してくる人が居ますが、そういのは勘弁です。


②ホント自分なんて大した事無いですから。

回りに凄い人が何人も居ますので、自分程度ではとても天狗になれません。
この環境でなければ自分程度でも天狗になってたかもしれません、
こんなで天狗になってたらと思うと、とても滑稽で寒気がするわ。

ホントに回りの人には恵まれた。

これが理由の2


③抱いた敬意が満たされないと負の感情に転移する。

勝手に幻想を抱かれて、勝手に幻滅されて
勝手に敵意を抱かれるのは勘弁なんだわ。

膝を屈した記憶は、容易に敵意に転化しますからね。

どうも自分には何かを期待させる雰囲気があるようですが、
それは人として欠けているからであって特別凄い能力がある訳じゃないです、
思うに親和欲求が極端に低いからではないかと、、、
(何か3歳ぐらいから親と一緒に寝るのを嫌がっていたらしい)

常々自分語りをする場合に「虫だからな」というフレーズを使っていますが、
卑下している訳ではなくて、群れていると安心という
哺乳類的な感覚が無いので自分の事をそう表現しているのです。

人ではない自分を外骨格で固めて人のフリをしている存在の有り方も
甲虫ぽくって「虫だからな」というフレーズは言い得て妙だなと
自分でも気に入っています。

これが理由の3ですが、相当痛い自分語りですね(笑)

まあ、最近は仕事的に他の人に気持ちよく働いてもらうよう気を使う
立場になったため、必要に迫られてやたら人を観察するようになりました。
見ていると色々な事が分かってきて面白いなー。と思っています。
もっと早くそうしていればもう少し生きやすかったのではないかと
思いますが、興味が無かった物は仕方がない。

話がだいぶ逸れましたが、
あんまりリスペクトリスペクト言う人は攻撃しちゃいますが、
硬直した空気を壊すためなんで許してね。

祭り上げられて自分自身も自由に物が言えなくなるのはマジ勘弁

日記テーマ「虫のたわごと」
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人間に擬態している私が、
推論と思い込みで勝手な事を言うコーナー
ドン引きしたらリンクを切ろう!
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今日はちょっと真面目な事を言います。
中身は大体誰かの受け売りですけど(笑)、
普遍的な事を語るのに新しい言葉は必要ないです。

「自分の好きな事をやっていても幸せにはなれない。」

いくら自分の好きな事をしていても、誰も認めてくれる人が居ないと幸せを感じられない。
集団生活する人間には、進化の過程でそういう性質が付与されています。
性格とかそんなんじゃなく、人という種はそのように設計されています。

だから「自分がやりたい事って何だ?」という事について、内省しても結論は出ません。
一人で好きな事をして充足できるようには人は作られていない。
とにかく世間に出て、やってみる事が大事。

個性が大事とか夢をあきらめないとか、自分が好きな事をするのが幸せ、という
洗脳教育を受けてきたかもしれませんが、そーいうのは基本嘘です。

幸福を感じるには、人のネットワークの中で役割を果たし
承認されるという事が必要条件として要求されます。

無論好きな事をやって承認されるのが一番ですが。
好きな事でないといけないという訳ではなく、
自分が認められているという感覚があれば、たいがいその事が好きになります。

型というのは大事なもので、
ある程度の年齢になると就職し、社会の中で役割を担い、
ある程度の年齢になると結婚し、子供を作り、家庭の中で役割を担うと、
人というのは一定の幸せを感じるように出来ています。

その型を破壊して、ニートだ、自分探しだ、DINKSだ、とかやりだすと、
何が幸せであるか、何が自分であるか、という事について
答えのない自分の中に、答えを求めないといけない。
(結果見つからなくてスピリチュアルとかチープな宗教にハマるんだよね。)

大変な世の中になったものです。
真面目な人ほどドツボに嵌る。
型どおりの人生でいいじゃないですか。
とりあえず卒業して社会の一旦を担ってみよう。




ま、昆虫である自分には、そんな話は関係ないんですけどね。
※日記テーマ「虫のたわごと」
 思いつきと思い込みで書く根拠の無い日記。
 


1990年代半ばから続く不況は、すでに20年になろうとしています。
途中2002年2月からの回復局面を指していざなみ景気と呼称しているようですが、
実感としては ずっと不況である。という感じです。

学校で習ったレベルで言うと、
キチンの波、ジュグラーの波、クズネッツの波、コンドラチェフの波といった物があって、
景気というのは良い時も悪い時もあるものだと思い込んでいた。

20年経って、どうも違うのではないかと思い始めた。


景気は循環しない。


18世紀後半からつづく技術革新により、
新しい製品が次々に開発され、それが人々の必需品となった。
(電気冷蔵庫・洗濯機・TV・クーラー・自動車という新旧三種の神器がその代表)

それらが行き渡るまでの過程は基本的に経済の拡大期だった。

その前提の中で、在庫が整理されれば 経済が回復するという状況が生まれたし、
設備投資の時期によって経済の波が発生するとかいう事が起こっていた。


今日本で起こっている状況は、前提が違う。

財は行き渡り、消費は拡大しない。
(景気とは消費の量)

新しい価値を作り出し、消費を喚起し成功を収める企業はあるが、
(グーグルとかマイクロソフトとか)
それは あくまで例外であり、TVを作れば、車を作れば、
まだ持っていない人に売れるといった過去の状況とは明らかに違う。

今は限られたパイの奪い合いをしている状況。
そこで起こる事は、安売り競争、ギリギリまで無駄を省く消耗戦。

景気が回復するはずが無い。

冷熱均衡を迎えた先に どうなるのか?

社会・経済のモデルを見なおさないといけない。
過去の理論があてはまらない世界に生きているという自覚を持つべき。
華がある人って居ますよね。
居るだけで目立って自然と人の輪の中心になる人。

あれって何なんだろうな~

人目を引く風貌や、言動もありますが、
共通して言えるのは自己肯定感が非常に強いという事。

強烈な自己肯定感から放つ言葉には力がある。

誰にでも成れるものではないです。
それこそ100人居て1人居るかどうかの希有な天分と言っていい。

努力すれば何にでも成れるという呪文のように唱えられる言葉がありますが、
自分はそれには否定的。
資質や環境によって自ずと限界はある。
イミテーションは本物には敵わない。

人は持って生まれた性分によって成れる者と成れない者があります。
自分には自己肯定感というものは ほとんど無いので、そういう物には成れない。
逆に迷いの言葉や怨嗟の言葉を吐くと、力を持つみたいですよ。(迷惑な話だ)
アクセスが増えて来たので、そろそろ閲覧者がドン引きするような事を書こうと思う。
ポケカの人は戻るボタン推奨!




日記テーマ「虫のたわごと」
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人間に擬態している私が、
推論と思い込みで物を言う閲覧者ドン引きのコーナー

学生時代の私の怨念がこもっています。
需要が無くても書くんだぜ~
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日記テーマ「虫のたわごと」は主に過去に考えた事なので、
基本的には書き終わっています。

どれも推察の域を出ない話なんですが、自分の中では確信を持っています。
しかし今回のはどうにもデータが少なくて確信が持てない内容です。
それゆえ、一年前に書いて止めていた日記。

基本的な記述は昨年時点となっています。
この1年で相当状況に変化がありました。
注釈を挟むのでちょっと読みにくいですがご容赦を。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

先日の潮干狩りから続く。

5,6年前から通っている三重県某所の海岸。
付近に潮干狩り場があったりしますが、
基本的に自然発生しているものと思われます。

磯ではアサリが、砂地ではバカガイが取れます。
昨年はナマコとウニがたくさん居ましたが、今年は見ませんでした。

ほぼ地元の人ですが、毎年多くの人がやってきて、
かなりの量を収穫していきますが、これまでのところ枯渇するという感じではないです。

どうもああいったものは、採ったから無くなるという性質のものではないらしい。
生態系の上位のものはいざ知らず、卵を何百、何千と産むようなものは、
環境さえ保たれていれば毎年豊かな稔りをもたらしてくれるらしい。

昔は「魚が湧く」という言葉がありましたが、
まさにそんな感じで、良くもまあ、これだけ毎年取れるものだと感心します。

  (2011追記)
   そんな海も今年は遂に変化。
   貝が小型化し、実入りも良くない。
   付近の河川の護岸工事の完成で流れが変わったか?

海の豊饒が何によってもたらされるかと言うと、
どうもそれは山の豊饒に繋がっているらしい。

気仙沼湾の牡蠣の養殖の話はかなり有名ですので、聞いたことがあるかもしれません。

  (2011追記) 
   と、書いたのが1年前、
   よもやその1年後こんな事になるとは・・・

牡蠣の養殖をする人が、海を豊かにするのに杉の植林を切って、
落葉広葉樹を植えたという話。

海の生き物には、森からもたらされる栄養塩が重要なようで、
全国的に進んでいる磯焼け(海から海藻などがなくなり、水産資源が極端に減少する現象。)
も理由の大半は山の豊饒が失われているためと推測します。
(サンゴの白化も本当に温暖化が原因か?と密かに疑っていたりして)

鉄鋼スラグなどで人工的に栄養塩を補完する実験もあるようですが、
それは対症療法に過ぎないので、どこかにゆがみが出るような気がします。

自分が小学校の低学年頃までの大阪湾(阪南市)は、
ちょうど先日の三重県某所のような感じでした。

遠浅の海ではノリの養殖もされていて、アサリも良く採れました。
ところが2,3年行かない時期があって、久しぶりに行ったときには、
全く取れなくなっていました。

何が変わったのだろうと、ずっと疑問に思っていました。
(今話している内容も確証がある訳ではありませんが、
 自分なりに納得のできる仮説です。)

大洋の真ん中は水がきれいで透明度が高い。
これはすなわち生息する生物が少ない事を表している。
海に流れ込んだ栄養塩はすぐさま深海に沈んで行き、
生物の繁栄に利用される事はない。

この栄養塩に富んだ深層水が海面に噴き出す所や、
栄養塩が留まる内湾のような環境は生物が繁栄し良漁場になっています。
生産性の極致は干潟のような環境であり、
有明海などを観察していると、その夥しい量の生物に驚かされます。

森から供給される栄養塩は海の生産性に直結している。
しかもそれは針葉樹ではなく、広葉樹でなければいけない。

阪南市あたりで、森が大規模に切られれたようなことは無かったように思いますが、
(住宅地開発は盛んでしたが、それだけで どうというほどでもないというように思います。)

何が変わったかというと、農業のやりかた、
もっと端的に言うと化学肥料の普及であると思います。

科学肥料の普及前の農業では、有機物を集めては鋤込んでいました。
山から集めた落ち葉や、古くなった畳、人糞まで、ともかく何でも鋤込んでいました。
(うんと小さい頃には田んぼの横に畳が積んであり、肥溜めもまだ有りました。)

そういった物が擬似的な森であったのだろうと推測しています。
(集めなくなった落ち葉からの供給はどう考えるか、
 あまりにデータが少なくて穴だらけの推論ですが。)

よく分からない要素として、下水道の普及があります。
きれいな水には養分が少ない。確実に栄養供給は減っているのですが、
昔を思えば海の有りようが変わってしまうほどの貧栄養になっている訳ではないし、
これはさして問題とはならないのではないかと、直感的には思います。
下水の普及と海が痩せた時期がズレている気がしますし。

検証するにはあまりにデータが足りない。
海の事を考えると、本当に人間に分かっている事なんて一部分なんだなって思う。

豊漁と不漁がなぜ起こるか誰も説明できない。
なぜ海がどんどん貧しくなっていくのか誰も説明できない。
説明できないままに我々は多くの物を失っていく・・・

避けられるリスクは避けるというのは賢明ですが、
度が過ぎる対応には疑問を感ぜざるを得ません。
以前から人はリスクの中で暮らさざるを得ないという事を主張している訳ですが、
http://kameiru.diarynote.jp/201007282200034471/
ちょっと身の回りに存在するリスクのパーセンテージを考えてみたいと思います。

日本の人口は2010年10月1日現在1億2805万6000人という事ですが、
今回非常に大雑把な計算になりますので1億として考えてみます。
人間の寿命もこれまた大雑把に100年として、
1生のうちでリスクに遭遇する率を出してみたいと思います。

(基準年2010年)

交通事故による死者 4863
4863÷100000000×100=0.004863=0.49%

新型インフルエンザによる死者 300?(どこまで含めるか不明)
300÷1000000=0.0003=0.03%

自殺者の数 31560
31560÷1000000=3.156%

肺ガンによる死者 7万人程度?
70000÷1000000=7%

交通事故による死亡が0.5%という事で、
学年で200人いると1人はその生涯で事故で死亡するというパーセンテージですね。
実感的にもそんなものかと思います。

自殺者はもっと多くて、1クラス30人いれば1人は自殺するという数字ですね。
すごい数字ですね。

肺ガンの数字は老衰とかその他もろもろの因子が絡むので何とも評価できませんけどね。
(疫学上では交絡因子といいます。統計はウソをつきますので、
 その数字がどうやって出た数字であるか検証が必要です。)

狂牛病なんてのは今の所測定不能ですね。
因果関係自体証明されてないし。

まあ、非常に大雑把な計算なんで あんまり当てになりませんけどね。
あれを避けるよりも もっと他に避けるべき事があるんじゃないか?という話です。

とはいえ私も避けられるリスクは避けますけどね。

極個人的なメモ書きです。
日記ですから・・・

(コミュニティの再生)
相互扶助による行政費用の削減
江戸時代的自治システム
網から洩れる個人・人格を作らない
コンパクトシティー

(産業)
固定化した産業構造の破壊
物を作るのではなく価値を作ること
既得権益の破壊
流動的雇用
セーフティネット(コミュニティによる側面支援)

(言論)
人の命は地球よりは軽い
考えられるリスクと対策のリアルな検証
無難な発言で世間を満たさない

(日本人)
世界一親切
お人好しではない賢明さを
日本人の再生を

(個人的ルーツのはなし)
(「たわごと」とかめーる個人に興味の無い方は読み飛ばし推奨)

日記テーマ「虫のたわごと」
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人間に擬態している私が、人ならざる者として違和感を感じた事を述べる、
ほぼ自己満足のコーナー。
(主な内容)
1.システムとしての生態系と進化
2.生産の技術・消費の技術
3.人間社会に対する違和感
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2日前の両生類の話から、そこはかとなくつづく。

小学生の時は、学校から帰ると毎日網とバケツを持って山に遊びに行っていました。

低学年の頃(昭和50年前後まで)は、まだ山で遊ぶ子供もいましたが、
高学年になる頃には、子供の遊び方が変わってきて、
そんな子供も皆無という状態になっていましたが、
私は中学の時も暇があれば山へ行ってましたし、
高校・大学・社会人と大阪を離れるまでずーっと暇をみて巡回していました。

自分ほどあの地域を定点観測していた人は居ないと自負しています。

どこに、どういう生き物が居るか、どうして居なくなったのか?
実に色んな事を感じるきっかけがありました。

そういう自分の中のセンスからすると、世の中のエコロジーかぶれの人が吐く言葉に、
「あ、こいつ知識だけで喋ってるな。」という感想を持つ事がしばしばあります。
(特に地球温暖化をめぐる議論は理論だけで回っている感がいっぱいです。)

私の育った家は、ちょうど万博の頃に出来た新興住宅地で、
田畑や、山が、どんどん住宅地として蚕食されて行く最中でした。
当時遊んでいた山は、第二阪和の接続道路が通ったため見る影もありません。
(それについての哀惜の想いは別の機会に。)

生き物が居なくなる主な原因は生息地の破壊であり、環境汚染だとか、
乱獲とか(生態系の上位のものは除きます。)、温暖化とかで居なくなった生物は、
まだ見たことがありません。

メダカは特に好きな生き物で、その分布が減少していく様は逐一把握していましたが、
メダカを絶滅危惧種にまで追い込んだのは、U字側溝であり、農薬なんぞではありません。

実際メダカほど生命力の強い生き物は居ません。

自分の今の家の裏に公園があり、そこにメダカが居るのですが、
とうてい綺麗とはいえない油が浮いた泥沼のような所で、
夏はひからびて40℃近くあるんじゃないか?
というような環境でも平気で生き延びて、
毎年子ども達の格好の獲物になっています。
(数年前から色メダカが混じってきて、遺伝子混雑に心を痛めているのはまた別の話。)

薬にも強く、塩分に対する耐性もあり、魚類最強と言って良い環境適応力を持っています。

それが居なくなったというのは、ひとえにどこもかしこも整備して、
水が干上がった時に退避する場所が無くなった結果。
(ただし、湖沼環境においてブラックバスとブルーギルが
 在来種にとって壊滅的な打撃を与えていることは間違いないです。)

一番大事な事は生息場所を守るという事に尽きる。
それ以外の事は枝葉の議論なのです。
(2日前の日記のイモリの生息地は道路になってしまったさ~)


ただ単に、虫や魚を追いかけていただけですが、
余計な先入観を与えられる前から自然と触れ合っていたことが自分の基礎。

見てきたことに合わない事には違和感を感じる。
何かが違う、と考えて来た事がたわごとになりました。

日記テーマ「虫のたわごと」
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人間に擬態している私が、人間の理の外から思想的なものを述べる
この人頭おかしいんじゃね?と思わせるためのコーナー
「僕は本気だ!(ペジテのアスベル)」
(読み飛ばし推奨)
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生態学上「生産」というのは、植物が光合成して
二酸化炭素と水から炭水化物を作り出す働きの他にない。

国民総生産とか言う時の「生産」とは、
今日では消費の多さを表す指標に他ならない。

いわゆる近代文明の発展とは、「消費の技術」の発展に他ならない。
みんなして、消費のスピードを競っているのが経済活動。

早い者が勝ち、遅いものは置いていかれる。
その姿は正に「自動車」
ガスが無くなれば一歩も前に進めない。

ガスが無くなった時にどうするかというのが、これからの課題。
人力で押すのか、別のもので動かすのか。

永続性のある文明を築こうとすれば、再生可能エネルギーを作る
「生産の技術」が必要となります。
現在の「消費の技術」は、この100年の内には確実に行き詰まる。

何がエコで、何がエコで無いかという事については、
全工程におけるエネルギー収支で考える必要があり、
生態学上の「生産」と「消費」の概念で考えると、エコカー減税なんてものが
全然エコで無い事はちょっと考えれば分かる。
あれは「消費」を喚起するための宣伝に他ならない。

そういった目で見ると、世の中の「エコ」なる言葉が、
「消費」を喚起するための免罪符として使われているとしか思えなくなってくる。

大方のエコロジストと同じく、人類は地球のガン細胞のようなもの、
と考えていた時期もありましたが、今はそうは捉えていなくて、
これも進化の方向性としては正しいと考えています。

どういう理由かは分かりませんが、
生物は一貫してより多くエネルギーを消費する方向に進化している。

環境から薄い膜で隔てられた単細胞生物が、循環系を持つ生物に、
動かなければほとんどエネルギーを消費しない変温動物から、恒温動物に、
さらに人類に至って、火を獲得し、体外でエネルギーを消費する術を覚え、
内燃機関の発明による爆発的エネルギー消費量の増加という、
2段階の進化の階段を上っています。

恒温動物が変温動物より優れているなんてのは、単なる思い込みでしかなくて、
ヒキガエルなんかは、最も寒い時期に起きてきて産卵をします。
動けないわけではなく、無駄な動きはしないだけ。

実際彼ら(変温動物)の効率の良さには驚嘆します。
魚なんか1ヶ月位絶食しても平気で生きています。
それからすると、体温を維持するためだけにエネルギーを消費する
恒温動物というシステムは無駄に資源を消費するだけの劣ったシステムと言える。

でも、生命は恒温動物というシステムを採用したし、
人類というシステムも採用した。

地球のエネルギー収支的には非常に迷惑な話ですが、
人類が異常なわけではなくて、生物進化の方向として正常に進化していると捉えています。

それが何を目指しているのかは、さっぱり分かりませんが、
寒くなりすぎた地球を暖めるためかもしれないし、
あるいは生命は地球から出たがっているのかもしれませんね。


日記テーマ「虫のたわごと」
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人間に擬態している私が、人間の理の外から思想的なものを述べる
閲覧者ドン引きのコーナー
学生時代の私の怨念がこもっています。需要が無くても書くんだぜ~。
(読み飛ばし推奨)
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(近代進化論の超克)
(科学ではなく、思索の帰結としての個人的思想の垂れ流し。)

【島嶼化という進化論的現象】

島嶼部においてしばしば生物の矮小化、もしくは巨大化が起こる現象を指して
生態学の用語で「島嶼化」といいます。(詳しくはウィキペディア等を参照)

一般的には集団が小さい事で突然変異と自然選択(natural selection)による
進化が起こりやすいと説明されるが、

島嶼化という現象は、小さすぎる島では発生しない。
固有種というのはある程度の大きさの島に多い。

一般に言われている突然変異と自然淘汰では、
この現象は説明できない。

生物の進化は個体レベルで起こるものではなく、
集団に起こる現象と考えた方が合点が行く事が多い。
そしてこの変化には、ある程度の個体数が必要なようだ。
(なぜ個体数が必要かを語り出すとオカルトになるので割愛)

さらに視点を引いて見ると、変わる時は生態系全体がガラっと変わる。
それは、化石的事実が物語っている。

進化は漸進的に進むのではなく、飛躍的に進む。

恐竜から鳥への進化の過程は、比較的系統立てて整理されているが、
○○と△△の中間の生き物なんてものは存在しない。

変わる時は突然に○○から△△への移行が行われる。
突然変異というのはしょせんエラーでしかなく、
エラーの蓄積で進化するなんてのは妄想以外の何物でもない。
(だから今だに「論」が外れない。)

そんな仮説が正しいとすると、種という集団の中に、
何かに変わっていく過程の生物が多数含まれ、
日々生存競争にさらされているはずだが、
種という集団はどこを見渡しても均一性を保っている。

元々「selection」という言葉は、
当時盛んだった植物の品種改良の用語で、
それに「natural」をくっつけたのが「自然淘汰」という言葉。

この優勝劣敗的な考え方は、
産業革命による資本力の差の正当化、帝国主義の正当化の必要から
社会思想として当時の社会に広く受け入れられ、
それが今日まで進化論という幻影から逃れられない原因となっています。
(市場原理主義を押し進めるやからには、非常に都合の良い思想であり、
 自然界もそうなのだから仕方ないか、と自慰させるためのツールとなっている。)

自然の本質は「競争」ではなく「調和」。
「生存競争」なんてものは存在しない。

草食動物が肉食動物に食べられるのも、
適度に狩りが成功して、適度に失敗するようにデザインされている結果。
この場合、予定数は食べられるというのが「調和」の姿。

このデザインを突然変異とやらで、勝手に狩りの成功率を上げると
調和が崩れてシステムの存続が危うくなる。

そしてこのシステムは、変わるべき時が来たら一斉に変わる。
(捕食者のみが強化した種になることは無い。)
種レベルではなく、生態系として変化していけるサイズの事を
「システムとしての生態系」(たわごとその①)と言いました。

固有種及び、固有の生態系の分布状況から見て、
種のレベルとして変化して行く事が可能な最小サイズは屋久島程度。
生態系として変化可能なサイズはマダガスカル島のサイズと考えています。
(これ以上サイズが小さくなると進化ができなくなる。)

今人類によって、ものすごい勢いで原生林=生態系が壊されています。
原生林は一度刈ってしまうと、植林したって生態系は復活しない。
(植林した森は木の畑であり、森ではない。)
自然のシステムについて、人間に分かっている事はほんの僅かであり、
生態系を再現することは、宇宙に行く事の何倍も難しい。

最優先すべき事は、システムとして成立できる規模の生態系を守る事。
その方が温暖化なんかより、何倍も取り返しがつかない事なんだ。

失われた生態系を復活させる術は我々には無い。

まあ、生態系が無くなって、
人類と人類に飼育される植物と動物だけになっても、
時計の針が3億年ほど遡るだけで大した事ないのかもしれませんが。

ひみつ日記
学生時代は、頭のバックヤードでこんな事ばかり考えている、相当変な人間でした。

まあ、今はそのバックヤードはポケカが占拠してるんですけどね(笑)

(追記)
・・・そうか、今日はクリスマスか~
何書いてんだ俺・・・

空気には逆らえない話し。2009年11月18日 虫のたわごと コメント (2)
注)今日の日記は特定の方に向けたものではありません。

自分の感覚は、ほ乳類というより虫に近いので、
空気を読むという事が非常に苦手です。
(群れていると安心という、ほ乳類的な感情は希薄です。)

ですから、基本的に人の輪から外れた所が私のポジションです。

戦前なら非国民扱いでしょうし、
今ならいじめの対象になっている事は間違いないと思います。

1960年代末に生まれ、既成の村社会の枠組みが崩れる中、
高度成長期で社会が確定してなかった時期に育ったという事は、
自分にとって非常な僥倖であったと思います。


どうも日本の社会では、一度空気が形成されてしまうと、
反対する意見を述べる事がタブーとなってしまうらしい。

いじめだって根は同じで、いじめは良くないと思っていても、
一度空気が形成されてしまうと、それを表明する事には非常な危険が伴う。

何なのこれは?
皆と同じだと安心する国民性?
それとも組織への帰属表明?

色んな意見があって良いと思う。
空気で右に走ったり、左に走ったりする国民性は変えないと、非常に危険なものを感じます。

空気が形成されると反対意見が言えなくなる事を指して
「異常な自粛社会」と呼びました。

今のインフルも、マスク着用率から考察するに、
深刻に考えている人は2割程度だと思います。

でも、命にかかわる事だから、対策が必要か? YES or NO
と問われると、YESしか言えない空気です。


4、5年前O-157騒ぎの時、近くの大学で学祭がありました。
その中のバザーの出し物に金魚すくいがあったのですが、
2日目、出し物が飼育グッズに変わっていました。

理由を聞くと「生ものはだめ」と言われたらしい。

「アホか」と思います。
お前らは金魚を喰うのか?

異常な自粛ムードで、0.001%でも可能性のあるものは
許可出来なかったのかもしれないが、常識的に極めて可能性が低いと
意見を言う奴は居なかったのか?

そんな事すら言えないムードに恐怖を覚えます。

世の中の危険は決して0にはならない、
軽重を判断して、許容される危険性の中で暮らして行かざるを得ない。

公的にコメントする場合は、安全サイドの意見を言っていた方が
無難だし、非難もされない。

そういう判断があるから、ますます自粛社会が加速する。
もはや暗黙の空気の前に沈黙するしか無い世界。


日記テーマ「虫のたわごと」
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人間に擬態している私が、人間の理の外から思想的なものを述べる
閲覧者ドン引きの、確実に友達を減らすコーナー。

内面の暗くてドロドロした物の上に板を乗せて、生活していますので、
この板をどけると、精神的に非常に負担が重い事が前回判明した。
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このシリーズも再録しときますか・・・。



日記テーマに「虫のたわごと」を追加。
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人間に擬態している私が、人間の理の外から思想的なものを述べる
閲覧者ドン引きのコーナー
学生時代の私の怨念がこもっています。需要が無くても書くんだぜ~。
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CO2削減が世界のコンセンサスみたいに語られていますが、
それってそんなに重要なの?

地質年代的時間軸で考えると、
白亜紀以降地球は寒冷化の一途をたどっている。
今は氷河期と氷河期の間にちょっと暖かくなっているにすぎない。

寒冷な気候が良いか、温暖な気候が良いかというと、
温暖な方が良いに決まっている。

CO2濃度だけが、地球の温度を決める訳ではありませんが、
1800年代まで280ppmで安定(歴史年代的な時間軸では)していたCO2濃度が、
それ以降の化石燃料の使用により増加し2006年段階で381ppmだそうです。

ところが、ジュラ紀の濃度は3000ppmで、
CO2が何%増えるとかいうレベルの話ではなかったようです。

地球と太陽の距離で、供給する熱量は決まっているわけで、
CO2濃度が増えたからと言って生物が住めなくなるわけではない。

無論急激な気候変動により、大ダメージを受ける生物もいるわけですが、
それでシステムとしての生態系が崩壊するわけではない。

大体40年で枯渇すると言われている石油資源を、
25%削減して50年もたせる事にさしたる意味が有るとは思えない。

可採埋蔵量にはカラクリがあって、
正確に何十年石油資源が持つのか分からない所がありますが、
有限であることは間違いなく、この数十年のうちには今のようには浪費できなくなる。

新エネルギーと言うが、それだって結局石油が無いと成り立たない。

循環型社会への移行はいやおう無しで、
きっとそれは、温暖化うんぬんというより、
いずれ人類の文明に壊滅的なダメージを与える。

人類の叡智で乗り越えられると思っているかもしれないが、
歴史はそれを否定している。

森を切って滅びてしまうのが、西洋文明の本質であり、
メソポタミアやギリシャと同じ運命がこの先待っていると言わざるを得ない。

ルネサンスに始まる近代西洋文明は、
先例にならって森を切って衰退して滅びるはずだったのが、
化石資源という過去の森に手を付けることで延命した。

今の文明は、理非の分からぬ、
それでいて金の使い方を覚えた11歳の子供が、
親のヘソクリを見つけて遊蕩三昧を繰り返しているにすぎない。

どこか罪悪感を感じているから、エコという言葉に逆らえない。

いずれ破綻する。
ただし、今度の破綻は地球規模だ。

CO2削減がどうとか言うよりも、
システムとしての生態系を守らないといけない。
それさえあれば、世界中で江戸時代になれば延命できる可能性はある。

学生時代の数字なので、今はどうか知らないが、
1年で四国と同じ面積の原生林が失われているらしい。
これを防ぐ事は、CO2削減と比べ、はるかに容易で意味のある事だ。

森を守れと言いたい。
今の世界は、5000年前に文字に書かれた人類最初の物語
ギルガメッシュに書かれたとおりになっている。

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私は人間の幸福のためなら、
いかなるものを犠牲にしても構わないと思っていた。

しかし、何千年後には何万のギルガメッシュが出てきて、
森の神を殺して無数の生命を奪ってしまう。

やがて森はなくなり、
地上には人間と人間によって飼育される動物と
植物だけしか残らないことになる。

それは荒涼たる世界だ。
人間の滅びに通ずる道だ
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