(再録)ダーウィン的進化論の否定2009年12月24日
2010年7月28日 虫のたわごと コメント (2)日記テーマ「虫のたわごと」
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人間に擬態している私が、人間の理の外から思想的なものを述べる
閲覧者ドン引きのコーナー
学生時代の私の怨念がこもっています。需要が無くても書くんだぜ~。
(読み飛ばし推奨)
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(近代進化論の超克)
(科学ではなく、思索の帰結としての個人的思想の垂れ流し。)
【島嶼化という進化論的現象】
島嶼部においてしばしば生物の矮小化、もしくは巨大化が起こる現象を指して
生態学の用語で「島嶼化」といいます。(詳しくはウィキペディア等を参照)
一般的には集団が小さい事で突然変異と自然選択(natural selection)による
進化が起こりやすいと説明されるが、
島嶼化という現象は、小さすぎる島では発生しない。
固有種というのはある程度の大きさの島に多い。
一般に言われている突然変異と自然淘汰では、
この現象は説明できない。
生物の進化は個体レベルで起こるものではなく、
集団に起こる現象と考えた方が合点が行く事が多い。
そしてこの変化には、ある程度の個体数が必要なようだ。
(なぜ個体数が必要かを語り出すとオカルトになるので割愛)
さらに視点を引いて見ると、変わる時は生態系全体がガラっと変わる。
それは、化石的事実が物語っている。
進化は漸進的に進むのではなく、飛躍的に進む。
恐竜から鳥への進化の過程は、比較的系統立てて整理されているが、
○○と△△の中間の生き物なんてものは存在しない。
変わる時は突然に○○から△△への移行が行われる。
突然変異というのはしょせんエラーでしかなく、
エラーの蓄積で進化するなんてのは妄想以外の何物でもない。
(だから今だに「論」が外れない。)
そんな仮説が正しいとすると、種という集団の中に、
何かに変わっていく過程の生物が多数含まれ、
日々生存競争にさらされているはずだが、
種という集団はどこを見渡しても均一性を保っている。
元々「selection」という言葉は、
当時盛んだった植物の品種改良の用語で、
それに「natural」をくっつけたのが「自然淘汰」という言葉。
この優勝劣敗的な考え方は、
産業革命による資本力の差の正当化、帝国主義の正当化の必要から
社会思想として当時の社会に広く受け入れられ、
それが今日まで進化論という幻影から逃れられない原因となっています。
(市場原理主義を押し進めるやからには、非常に都合の良い思想であり、
自然界もそうなのだから仕方ないか、と自慰させるためのツールとなっている。)
自然の本質は「競争」ではなく「調和」。
「生存競争」なんてものは存在しない。
草食動物が肉食動物に食べられるのも、
適度に狩りが成功して、適度に失敗するようにデザインされている結果。
この場合、予定数は食べられるというのが「調和」の姿。
このデザインを突然変異とやらで、勝手に狩りの成功率を上げると
調和が崩れてシステムの存続が危うくなる。
そしてこのシステムは、変わるべき時が来たら一斉に変わる。
(捕食者のみが強化した種になることは無い。)
種レベルではなく、生態系として変化していけるサイズの事を
「システムとしての生態系」(たわごとその①)と言いました。
固有種及び、固有の生態系の分布状況から見て、
種のレベルとして変化して行く事が可能な最小サイズは屋久島程度。
生態系として変化可能なサイズはマダガスカル島のサイズと考えています。
(これ以上サイズが小さくなると進化ができなくなる。)
今人類によって、ものすごい勢いで原生林=生態系が壊されています。
原生林は一度刈ってしまうと、植林したって生態系は復活しない。
(植林した森は木の畑であり、森ではない。)
自然のシステムについて、人間に分かっている事はほんの僅かであり、
生態系を再現することは、宇宙に行く事の何倍も難しい。
最優先すべき事は、システムとして成立できる規模の生態系を守る事。
その方が温暖化なんかより、何倍も取り返しがつかない事なんだ。
失われた生態系を復活させる術は我々には無い。
まあ、生態系が無くなって、
人類と人類に飼育される植物と動物だけになっても、
時計の針が3億年ほど遡るだけで大した事ないのかもしれませんが。
ひみつ日記
学生時代は、頭のバックヤードでこんな事ばかり考えている、相当変な人間でした。
まあ、今はそのバックヤードはポケカが占拠してるんですけどね(笑)
(追記)
・・・そうか、今日はクリスマスか~
何書いてんだ俺・・・
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人間に擬態している私が、人間の理の外から思想的なものを述べる
閲覧者ドン引きのコーナー
学生時代の私の怨念がこもっています。需要が無くても書くんだぜ~。
(読み飛ばし推奨)
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(近代進化論の超克)
(科学ではなく、思索の帰結としての個人的思想の垂れ流し。)
【島嶼化という進化論的現象】
島嶼部においてしばしば生物の矮小化、もしくは巨大化が起こる現象を指して
生態学の用語で「島嶼化」といいます。(詳しくはウィキペディア等を参照)
一般的には集団が小さい事で突然変異と自然選択(natural selection)による
進化が起こりやすいと説明されるが、
島嶼化という現象は、小さすぎる島では発生しない。
固有種というのはある程度の大きさの島に多い。
一般に言われている突然変異と自然淘汰では、
この現象は説明できない。
生物の進化は個体レベルで起こるものではなく、
集団に起こる現象と考えた方が合点が行く事が多い。
そしてこの変化には、ある程度の個体数が必要なようだ。
(なぜ個体数が必要かを語り出すとオカルトになるので割愛)
さらに視点を引いて見ると、変わる時は生態系全体がガラっと変わる。
それは、化石的事実が物語っている。
進化は漸進的に進むのではなく、飛躍的に進む。
恐竜から鳥への進化の過程は、比較的系統立てて整理されているが、
○○と△△の中間の生き物なんてものは存在しない。
変わる時は突然に○○から△△への移行が行われる。
突然変異というのはしょせんエラーでしかなく、
エラーの蓄積で進化するなんてのは妄想以外の何物でもない。
(だから今だに「論」が外れない。)
そんな仮説が正しいとすると、種という集団の中に、
何かに変わっていく過程の生物が多数含まれ、
日々生存競争にさらされているはずだが、
種という集団はどこを見渡しても均一性を保っている。
元々「selection」という言葉は、
当時盛んだった植物の品種改良の用語で、
それに「natural」をくっつけたのが「自然淘汰」という言葉。
この優勝劣敗的な考え方は、
産業革命による資本力の差の正当化、帝国主義の正当化の必要から
社会思想として当時の社会に広く受け入れられ、
それが今日まで進化論という幻影から逃れられない原因となっています。
(市場原理主義を押し進めるやからには、非常に都合の良い思想であり、
自然界もそうなのだから仕方ないか、と自慰させるためのツールとなっている。)
自然の本質は「競争」ではなく「調和」。
「生存競争」なんてものは存在しない。
草食動物が肉食動物に食べられるのも、
適度に狩りが成功して、適度に失敗するようにデザインされている結果。
この場合、予定数は食べられるというのが「調和」の姿。
このデザインを突然変異とやらで、勝手に狩りの成功率を上げると
調和が崩れてシステムの存続が危うくなる。
そしてこのシステムは、変わるべき時が来たら一斉に変わる。
(捕食者のみが強化した種になることは無い。)
種レベルではなく、生態系として変化していけるサイズの事を
「システムとしての生態系」(たわごとその①)と言いました。
固有種及び、固有の生態系の分布状況から見て、
種のレベルとして変化して行く事が可能な最小サイズは屋久島程度。
生態系として変化可能なサイズはマダガスカル島のサイズと考えています。
(これ以上サイズが小さくなると進化ができなくなる。)
今人類によって、ものすごい勢いで原生林=生態系が壊されています。
原生林は一度刈ってしまうと、植林したって生態系は復活しない。
(植林した森は木の畑であり、森ではない。)
自然のシステムについて、人間に分かっている事はほんの僅かであり、
生態系を再現することは、宇宙に行く事の何倍も難しい。
最優先すべき事は、システムとして成立できる規模の生態系を守る事。
その方が温暖化なんかより、何倍も取り返しがつかない事なんだ。
失われた生態系を復活させる術は我々には無い。
まあ、生態系が無くなって、
人類と人類に飼育される植物と動物だけになっても、
時計の針が3億年ほど遡るだけで大した事ないのかもしれませんが。
ひみつ日記
学生時代は、頭のバックヤードでこんな事ばかり考えている、相当変な人間でした。
まあ、今はそのバックヤードはポケカが占拠してるんですけどね(笑)
(追記)
・・・そうか、今日はクリスマスか~
何書いてんだ俺・・・
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